【たかさん】の北海道市町村来てみたよ!
【明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い致します】🐎
これは北海道の道の駅全駅制覇しても、振興局単位のキャンプ地を制覇しても、まだまだ北海道にはきちんと見ていない市町村が多いなぁと思った【たかさん】が、道内市町村を巡るお話です。
気が付けばブログにしてから3年目に入りました。
いつも読んでいただきありがとうございます。
先月はキャンプに行っておりまして、久々の更新です。皆さんに「へぇ〜」をお届けできるよう、引き続きのんびり更新していきますね。
令和8年(2026年)からはAIを活用しながらお話しを進めて参ります!
では、新年一発目!~再訪の旅~では物足りない!
行ってきました札幌市巡り! 今回も長いよ!時間を見つけて読んでね!
【札幌市北区】篠路から始まる、開拓の最前線


2025年11月現在 人口:283,966人
札幌市全10区の中で人口第1位です。
道内市町村で言うと、北海道第二位の都市「旭川市」に次ぐ人口規模です。いやぁー多い!!「函館市」よりも多いんですよ!
大学や商業施設が多く、圧倒的な活気がありますね。
にしても・・・人口に対して役所の建物小さくない??


ここで28万人を支えているとは...
最初の訪問は
「屯田兵顕彰之像」

さすがに敷地内は雪で埋まっており、近くまでは行けませんでした。

1889年(明治22年)にこの地に入植した「屯田兵第一大隊第四中隊」の開基100年を記念し、1988年に建立されました。
像のモデルは、当時の指導者であった中隊長・渥味直茂(あつみ なおしげ)大尉です。
軍装に身を包んだ大尉が遠く空を指さす姿が特徴的で、台座には、熊本、山口、和歌山など全国から集まった220家族1,056名の入植の歴史が刻まれています。

敷地内には「水田開発記念碑」「忠魂碑」「屯田兵第一大隊第四中隊本部跡の碑」等がありました。


そう言えば、戊辰戦争が終わった直後の明治初期、なぜ「札幌」が選ばれ、開拓の拠点となったのか。
このお話しはしていなかった様な気がします。
調べてみると、それまで北海道の中心だった「函館」や「松前」ではダメな理由がいくつかありました。
• 位置が南すぎる: 当時、樺太(サハリン)にはロシア人が増え、南下してくる脅威がありました。函館は本州に近すぎて、北海道全体の防衛や奥地の開発には向いていなかった。
• 平地が少ない: 函館や松前は山と海に囲まれており、将来的に何十万人も住むような「大都市」を建設するための広い土地がありませんでした。
2. 札幌が選ばれた「3つの決め手」
1869年(明治2年)、開拓判官の島義勇(しま よしたけ)という人物が札幌を訪れ、この地を本拠地に決めました。その理由が以下の3点です。
1. 石狩平野の広大さ
2. ロシアを睨む「北」の拠点
3. 豊かな資源と水
「ロシアへの防衛(北方警備)」と「京都のような巨大都市を創れる広大な土地」そして「資源」という条件を、札幌が奇跡的に満たしていたのですね。
また、小樽港が札幌の玄関口として機能した事、 日本で3番目の鉄道「官営幌内鉄道」が早くから敷かれた事、大友堀(現在の創成川)などの運河が掘られ、石狩川の支流と繋がっており、小樽港に入った荷物を、小さな舟に積み替えて札幌のど真ん中まで引き込んでいた時期もあります。
札幌が成功したのは、内陸の欠点(海がない)を、小樽という「外付けの港」と、それを結ぶ「鉄道・運河」で完璧に補ったからと考えられるようです。
【屯田郷土資料館】


こちらで北区の屯田兵について学んでみましょう!


おや・・・?午後1時から?
と残念そうにしていると、近くに居た女性が声をかけてくれまして。「特別ですが開けましょうか?」と。
😃✨はい!お願いします!
と、通常開館前ですが特別に開けてくださいました!
ありがたやー! 潜入🫡

かつて「篠路兵村(しのろへいそん)」と呼ばれたこの地の開拓の歴史を伝える施設です。
単なる公立の展示施設というだけでなく、地域の住民が寄付を集めて開設に尽力したという「地域愛」に支えられた運営が大きな特徴です。
入館料は無料でした。
館内は2階建てで、約4,000点もの貴重な資料が収蔵されています。
屯田地区はもともと泥炭地で水害が多く、開拓は困難を極めました。
• 巨大な排水溝の建設: 湿地を農地に変えるための苦闘の歴史がパネルや模型で紹介されています。
• 札幌の米どころ: 昭和初期には広大な水田が広がっていた歴史があり、当時使われていた農機具も豊富に展示されています。
※以下資料 屯田郷土資料館
(札幌市北区屯田5条6丁目3-21)
※写真撮影許可済み

まずは開拓民がどこから来たのか。現在の「石川県・福井県・和歌山県・徳島県・山口県・福岡県・熊本県」から北海道に夢を持ってきたのでしょう。

ごあいさつ
それぞれのまちには、開拓の精神があり、それを象徴する人物や事柄がその歴史に顕在します。札幌の場合、屯田兵がそれにあたると思います。
屯田兵が北の大地に入値し、過酷な自然環境のなかで行われた開望に、血のにじむような苦労があったことは想像するに難くありません。彼らのたゆみのない努力と不屈の精神が受け継がれ、今日の札幌が築かれたと申すことができましょうし、また「屯田」という地名にその名残がみられるように、今もその精神は脈々と息づいています。
ご観覧の皆様には、風雪の年輪が刻まれた遺産に触れ、逞しい先人の心を知って頂き、それが札幌の明日を切り開く大切な糧となりますよう願っております。
昭和6年1月3日
札幌市長板垣 武四
ごあいさつ
屯田地区は明治22年、北海道の開拓と警備という二大使命を担った220名の屯田兵とその家族によって、篠路兵村としてに誕生致しました。
当時は、うっそうとした林地や湿地帯であり、又寒さ厳しくその自然条件は想像をするものがあったと思われます。しかし、先人運は森林を切り開き、温地を耕し、自然の脅威と戦いながら子孫永道の栄を願って現在の屯田の礎を築き、これを受けいだ先輩各位のたゆまぬ努力によって現在の発展を迎えることかできました。
〜以下略
と瑠々書かれています。

先ほどの石碑のパネルがありますね。現地では読めなかったんですが、「開拓碑」でした。
なぜ屯田兵を

屯田兵は兵隊を兼ねた開拓者

屯田兵の誕生

道内の屯田兵村

これだけ道内の市町村を巡っているのに、屯田兵村はあまり見てこなかったですね。
札幌から空知、上川へと北上していったのがわかります。室蘭・厚岸・根室にもポツンとありますね。
札幌圏の屯田兵村

この図!ちょっと覚えておいてください。たしか最初の開拓は「琴似」そこから「山鼻」「篠路」「新琴似」が兵村の流れのようです。


篠路兵村


屯田兵に与えられた家屋の地図ですね。
このときすでに「グリッドプラン」が確立されている!
他には兵村を守るための消防の様子もありました。

屯田兵屋


この建物(屯田兵屋)は明治22年、現在の屯田6条2丁目382番地に屯田兵として入植した佐々木氏一家(山口県出身)が明治37年頃まで生活をしていたものであります。~中略~当資料館内に展示をし、永久保存すべく同氏より寄贈をうけました。・・・
と、実際の兵屋を移転復元したものでした。


屯田兵が最初に鉄砲を持ったのは、西南戦争のときでした。


日清戦争でも出征


その後、日露戦争にも出征


資料館2階へあがってみます

水との闘い

札幌に資源を求め開拓に来たけど、札幌を始め、北海道各地での水との闘いは開拓の大きな障害だったようですね。先日の【鷹栖町】でも水との闘いが語られていましたね。
→ 鷹栖町を振り返る
takavantabidaikiti.hatenablog.com
ここでも「土功組合」



で、このブログの本命が来ました!✨

明治8年琴似村に屯田兵入植
明治9年山鼻村に屯田兵入植
明治14年篠路太に屯田兵入植

明治20年新琴似に屯田兵入植

明治32年 篠路兵村四ケ村戸長役場より篠路兵村戸長役場に編入

篠路兵村は篠路村から琴似村に移管する

昭和17年 琴似町に町制施行、篠路村は琴似町大字屯田となる

昭和30年 琴似町が札幌市と合併、札幌市屯田となる

昭和47年 札幌市が政令指定都市になり屯田は北区屯田町となる
北区全体ではなかったけど篠路を中心にだいたいわかりましたね。
新琴似の屯田兵がどのような集落に変わっていったのかも気になるところ。
その新琴似にも行ってきましたよ
「新琴似屯田兵中隊本部」

建物は「新琴似神社」の一角にあります。
開館時期には中を見学できるようですね。
この時は入場はできませんでした。
この建物は、1886年(明治19年)に「陸軍屯田兵歩兵第1大隊第3中隊」の本部として建てられ、兵村の行政や軍事の拠点であり、いわば「村役場」と「司令部」を兼ねた場所でした。


「新琴似神社」

せっかくなのでまだ行っていなかった初詣をして来ました。“この旅も無事安全に終われますように。”
安全を祈願したところで、お隣の区に入ります!
【札幌市東区】産業の発展と空への玄関口



2025年11月現在 人口:263,491人
札幌市内で人口第2位。
北海道市町村でみますと、ここも「旭川市」に次ぐ人口です。「函館市」よりも多いんです。
歴史ある農地と近代的な住宅街が共存するエリアですね。

建物は1万人規模程度の市町村的な大きさでした。
レンガ調の建物が札幌っぽい気がします。

それじゃぁ、「東区」を巡ってみましょう!
ビール好き!お酒好き!は、来ないわけないでしょう!
「サッポロビール博物館」

んー!田舎者の【たかさん】には、札幌来た!って感じがします。
「サッポロビール博物館」は、日本で唯一のビールに関する専門博物館です。明治時代の貴重な建築と、北海道開拓の熱い歴史が詰まった非常に魅力的な博物館ですね。
おや?こんなところに「神社」が・・・

「札幌神社」?


ほー。北海道神宮の御分霊をお祭りとな。
広い敷地には「サッポロビール園、博物館、開拓使館、ポプラ館、カフェ、ショップ」などがありました。


んー 読めない・・・

ここが博物館入口のようです。

入ってみましょう! ビール♪ び~る♪ ←うきうき



車じゃなければ全部呑みたい。

コーン茶も、とうきび!って味がしておいしいんですよ!

ここから一般見学コースを回っていきます。


この窯1杯分のみたい


ではここからサッポロビールと開拓の歴史をみていく!
※以下資料「サッポロビール博物館」
01 1869~開拓使のはじまり

01-01開拓使の設置 01-02西洋式の導入

01-03開拓使がはじめた事業

01-04開拓使のまちづくり

02

02-01中川清兵衛の生い立ち

02-02本場ドイツで修行したビール醸造人、誕生 02-03中川の目指したこと

02-04お雇い外国人からの提言

おおっ!ここに!岩内で発見された野生ホップの話が!!

→岩内町を振り返る まだブログにしていない頃なので、また~再訪の旅~にて。
takavantabidaikiti.hatenablog.com
03 1875~北海道でつくるべき!

03-02開拓使は、北海道のために

04 1876~ビール醸造所の完成

歴代のラベルがならんでるー!

05 1877~札幌ビールの初出荷

06 1880~札幌ビールの評価高まる

さすがにこのラベルは知らなかったぞ。

07 1886~官営から民間企業へ

サッポロビールの源流は、明治政府が1876年に設立した官営の「開拓使麦酒醸造所」です。これが1886年に大倉喜八郎(大倉組)に払い下げられた後、翌1887年に渋沢栄一が浅野総一郎らと共に事業を譲り受け、「札幌麦酒会社」を設立しました。
08 1892~ビール醸造の近代化

09 1903~札幌麦酒、東京進出

日本のビール業界は激しいシェア争いをしていました。渋沢は過度な競争を避けるため、1906年に3社の合併を調整・実現させ、札幌麦酒(サッポロ)、日本麦酒(ヱビス)、大阪麦酒(アサヒ)が合併し、市場シェア約7割を誇る巨大企業「大日本麦酒株式会社」が誕生しました。
第二次世界大戦後、GHQは「日本の軍国主義を支えたのは巨大な財閥や独占企業だ」と考え、これらを解体するよう命じました。これが「過度経済力集中排除法」です。 この法律の対象に大日本麦酒が選ばれ、「あまりに大きすぎて競争が起きないから、会社を2つに分けなさい」という命令が下ったのです。
1949年(昭和24年)、大日本麦酒は以下の2社に分割されました。
この時、面白いことに「ブランド(商標)」も半分にされました。サッポロ側が「サッポロ」と「エビス」を、アサヒ側が「アサヒ」というブランドを引き継いだのです。
この分割後、アサヒビールは長く「業界3位」の苦しい時代を過ごしますが、1987年の「アサヒスーパードライ」の大ヒットで劇的な復活を遂げ、首位を奪還することになります。
10 1956~サッポロビールの復活

10-03 北海道から「サッポロビール」復活!

11 1977~生ビール時代を切り拓く

11-02 名付け親はお客様、サッポロ生ビール黒ラベル

12受け継がれるものづくり

12-01 開拓使時代の原料づくり

岩内町の功績おおきいなぁ。
さっぽろとサッポロ

明治・大正・昭和と続く歴代の広告ポスターの展示は、日本のデザイン史や世相の移り変わりを感じることができ、ビールを飲まない方でも楽しめるのではないでしょうか。

「漢は黙って、サッポロビール。」

売店のコーナーに来ました!

目を引くものがいろいろ!


写真撮りもわすれてTシャツにちょっと心惹かれていました。
お!これは「地ビール」ではないですか!
地ビールは買わないといけないルールなのです!

こちらは「サッポロビール開拓使館」


こちらはレストランでした。
自分へのお土産に!

外にも窯があった。

のんびりビールに浸ってたらお昼を過ぎていました。
博物館はタイムズの有料駐車場だったので、気兼ねなく近くでお昼にします。
「一旅一ラーメン!」

今回伺ったのは「雨は、やさしくNo.2」

クリーミーなスープがこれまた絶品!おいしかった~!ごちそう様でした!
そして東区というよりも、札幌村だった歴史を教えてもらいましょう!
「札幌村郷土記念館」

駐車場から見える石碑がなにやら・・・


では、伺ってみましょう。



実は、今の札幌の礎を築いた「大友亀太郎」と札幌村の歩みを知ることができるのが、この『札幌村郷土博物館』です。 かつての役場跡地に建つこの場所には、開拓時代に使われた貴重な生活用具や農機具がぎっしり。当時の人々の息遣いが聞こえてくるような、どこか懐かしくも新しい発見がある博物館です。



この札幌で忘れてはならない人物「大友亀太郎」

雪に埋もれちゃってます。

※以下資料「札幌村郷土博物館」(一部、札幌市直轄の資料・展示があるためそちらの展示物は撮影しておりません)
お!札幌の農産物といえば”たまねぎ!”「札幌黄」!

入館すると『昭和16年生まれのおねえさん学芸員』さんがいろいろ詳しく教えてくれました。
慶応2年(1866年)
江戸時代末期、幕府は北方警備と開拓のために、この地に御手作場《のちの元村(札幌村)》を設置しました。しかし、当時のこのエリアは湿地帯や原野が多く、農業を行うためには「水の確保」と「排水」、そして「物資の輸送路」が不可欠でした。そこで大友亀太郎が私費を投じ、幕府の許可を得てわずか1年余りで掘り上げたのが大友堀です。それは単なる水路ではなく、札幌という都市を機能させるための「多目的インフラ」でした。また、都市計画の「基準線」として、現代の札幌に最も大きな影響を与えています。明治時代に入り、島義勇(しま よしたけ)らが本格的な街づくりを行う際、この大友堀を「基点(南北の軸」として、碁盤の目の街並みが設計されました。


ここでちょっと思い出してもらいたいのが、屯田兵が入植してきたあの図です。
明治2年(1869年)に北海道となりました。
明治8年(1875年)屯田兵第一号が琴似に入植 なのです。
屯田兵の開拓ではなく、屯田兵による開拓より9年も前にすでに元村(札幌村)の開拓は始まっていたんですね。

札幌周辺村図
これは郷土記念館でいただいた「札幌市史」をコピーしたものです。
周辺の村だった場所がわかります。
そしてたまねぎ「札幌黄」

海外から取り寄せられた種子は札幌村で栽培されました。
しかし、当時日本になかった”たまねぎ”と言う植物は食料としてなかなか受け入れられず、その大きな役目は外貨の獲得でした。生産品を輸出し、資金を稼いでいたようです。
北海道といえば「道産子」。午年にちょうどいい。
しかしこの道産子・・・

もともと東北の南部馬だって知ってました?
札幌の川についてかなり詳しく記載されています。



大友亀太郎は二宮尊徳より測量の技術を学び、大友掘を完成させたそうです。


年表きたー!

慶応二年(一八六六)
大友亀太郎は箱館奉行から西蝦夷地開墾掛に任ぜられて、石狩場所開墾の取扱いを委任される。(二月)
明治二年(一九六九)
蝦夷地を北海道と改め、サッポロを首都とし開拓使がおかれる。

明治四年(一八七一)
庚午一の村を苗穂村、庚午二の村を丘珠村、札幌新村を札幌元村と併せ札幌村と命名する。
学芸員さんの話に寄ると、当時、札幌元村に暮らしていた村人は、後からきて札幌新村を作るといった村人たちを快くは思っていなかったようでした。

明治十三年(一八八〇)
郡区町村編成法により札幌全郡が区となる。札幌区役所(南二西五)には、三月札幌、苗穂、丘珠、雁来、篠路五村戸長役場が設置される。
明治十五年(一八八二)
開拓使を廃止、札幌、函館、根室の三県がおかれ札幌県に属する。

明治十七年(一八八四)
札幌市街のみを札幌区とし、札幌郡ほか五郡は札幌外郡役所を設置して各部を管轄する

明治十九年(一八八六)
三県を廃止し北海道庁が置かれる。


明治三十一年(一八九八)
札幌に区制がしかれる。
札幌村外三村に戸長役場が置かれる。

明治三十五年(一九〇二)
本村に二級町村制施行

明治四三年(一九一〇)
札幌村、苗穂村の一部が札幌区に編入される。

大正十一年(一九二二)
札幌区に市制が施行され、札幌支庁が石狩支庁と改称される。
大正十三年(一九二四)
本村に一級町村制が施行される。


昭和九年(一九三四)
札幌村、苗穂村、雁来村の一部が市に編入される

昭和三十年(一九五五)
札幌村、琴似町、篠路村と共に札幌市に合併される。
札幌市の形成がわかる図もありました!

篠路村は一時分村していたことがわかりますね。
北海道遺産に認定されています。

札幌村役場庁舎跡地は現在の「札幌村郷土資料館」となっております。

亀太郎さんの雪が降ろされていました!

すっかり学芸員さんの楽しい解説に耳を傾けてしまい、時間も遅くなっていました。
退館間際には、館長さんにご挨拶いただき、名刺までもらい、札幌に関する資料・パンフレットをこれでもか!ってくらいいただきました。
とても親切に解説・対応いただき、また、今後の資料となるパンフレットもいただき、ありがとうございました!ここもそうですが、北区の屯田資料館でも、開館前に見学させていただいたり、西区の資料館も丁寧な対応、資料をたくさんくださり、札幌の郷土資料館なまら楽しい!ってなりました。ほんとうにありがとうございました!

いただいた資料の一部
さて、すっかり遅くなってしまったので本日はこの辺にしておくことにして、
温泉へ!「札幌あいの里温泉 なごみ」さん!

茶褐色のお湯が身体をあっためてくれて、のんびりできるいい温泉でした!
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この日は、「北欧の風道の駅とうべつ」へ移動し、仮眠となりました。
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**翌朝**
札幌唯一の空港にして、空の玄関口!
【札幌丘珠空港】

なんやかんや、空港見て歩くの楽しいんですよね。
札幌観光や出張といえば「新千歳空港」が定番ですが、札幌市の空港といえば丘珠空港ですね。
最大のメリットは、なんといっても「街からの近さ」! 札幌駅からも車やバスで20分〜30分程度。アクセスの良さが魅力です。ここはプロペラ機が主役の、とてもアットホームな空港。展望デッキからは機体との距離が驚くほど近く、エンジン音とともに飛び立つ姿は迫力満点です!空港内には札幌のソウルフード「丘珠ラーメン」が食べられるレストランや、地元の特産品が並ぶショップ、さらには札幌の歴史展示パネルもあり、待ち時間もゆっくり過ごせる空港になっております。

空港ビル案内図



おや?おやおやおや?これは!もしや!

札幌をひとまとめに歴史がわかるではないですか!!
搭乗待機している人たちに怪しい人物と思われながら確認!

慶応2年・大友亀太郎、御手作場を開き、大友堀を開削
明治2年・開拓使設置、蝦夷地を北海道と改称 ・島判官、札幌本府建設に着手
明治3年・移民118戸が苗穂、丘珠,円山などに入植
明治7年・屯田兵制度制定
明治8年・最初の屯田兵として琴似に198戸が入植
明治13年・手宮~札幌間に鉄道開通
明治14年・札幌市街の町名を条丁目に変更
明治19年・北海道三県廃止、北海道庁設置
明治33年・札幌・函館・小樽に北海道区制実施

大正11年・市政施工(札幌・函館・小樽・旭川・室蘭・釧路)

昭和9年・札幌村の一部を編入
昭和16年・円山町と合併

昭和26年・広島村の一部を編入
昭和30年・琴似町・札幌村・篠路村と合併、江別市との境界を一部変更
昭和36年・豊平町と合併
昭和42年・手稲町と合併

昭和48年・小樽市の一部を編入

平成元年・白石区、西区の分区(厚別区・手稲区の誕生)により9区体制へ移行
平成9年・豊平区の分区(清田区の誕生)により10区体制へ移行
へえーー!!平成に入ってから、分区があったんですね!
白石区=白石区+厚別区 西区=西区+手稲区 豊平区=豊平区+清田区
と、まだ歴史の浅い部分がわかりました。西区は以前の訪問で、手稲記念館がなぜ西区?と印象深かった事を思い出します。
→札幌市西区を振り返る
takavantabidaikiti.hatenablog.com
この先の白石区もこれを踏まえて見てみましょうね。そして未訪問の厚別区、清田区、豊平区、中央区のためにも覚えておこう!


丘珠空港の基本情報

なかなか空港の概要なんて見ることもないので、けっこう新鮮です。

北海道の離島まで飛んでくれてるのはありがたい空港だぁ~

他人事と思わず、滑走路延長計画を考えてみよう。
おやまぁ。親切に図にしてありますね。わかりやすのではないでしょか?


これはわかりやすい。
札幌区を中心に、札幌村、苗穂村、雁来村、丘珠村、篠路村、豊平村、上白石村、白石村、月寒村、山鼻村、円山村、琴似村、上手稲村、下手稲村、発寒村、山口村、平岸村
の1区17村が存在
北海道一・二級町村制により、

札幌市を中心に、篠路村、札幌村(札幌村+丘珠村+雁来村+苗穂村)、白石村(白石村+上白石村)、藻岩村(山鼻村+円山村)、琴似村(琴似村+発寒村)、豊平村(豊平村+平岸村+月寒村)、手稲村(上手稲村+下手稲村+山口村)
の1市7村になり、
藻岩村が円山町に改称して、札幌市(札幌市+円山町)

白石村と合併、札幌市(札幌市+白石村)

琴似町、札幌村、篠路村が合併 札幌市、手稲町、豊平町の1市2町になって、豊平町と合併 、手稲町はなぜ最後まで合併しなかったのかねぇ?

調べてみましたよ!
手稲の人々にとって、合併は「救済」ではなく、将来の発展を見据えた「苦渋の、あるいは戦略的な決断」だったといえます。
最大の理由は、手稲町が札幌に頼らなくてもやっていける「豊かな財政」を持っていたことです。 戦前、手稲山では金、銀、銅などを産出する「手稲鉱山」が栄えていました。昭和10年代には「東洋一」と称される選鉱場が建設され、多くの労働者が集まり、町に莫大な税収をもたらしました。 「札幌のベッドタウン」としてではなく、独自の産業を持つ「自立した町」としての自負が、合併の必要性を感じさせなかったのです。そして、歴史的に見ると、手稲は札幌よりも小樽との結びつきが強い場所でした。 明治初期、開拓使本府(札幌)への物資輸送は小樽港から陸路で行われており、手稲(当時の軽川周辺)はその重要拠点でした。
そんな手稲町が合併に大きく舵を切ったきっかけは、1972年の札幌冬季オリンピックの開催決定(1966年決定)でした。
手稲山がアルペン競技などの会場に選ばれたことで、大規模な道路整備やインフラ開発が必要となりました。町単独の予算では到底賄いきれない膨大な事業費を前に、ついに札幌市との合併を受け入れる道を選んだのです。1967年、オリンピックを5年後に控えたタイミングで、手稲町は札幌市と合併しました。
そんな理由があったんですね!腑に落ちました。


滑走路を見てみたよ!

けっこう近い距離で、プロペラ機がみられるらしいんだけど、この日のこの時間は見れませんでした。


そしてひっそりとたたずむこちらの場所へも来てみました。なかなか行かないよね。
「庚申塚」

雪に埋もれて近くへはいけませんでしたが、「庚申塚」とはなんぞや?も解説してみましょう。

札幌市内でも東区に古い庚申塚が点在しているのは、ここが札幌で最も早くから民間人による農村形成が進んだ「札幌村」の本拠地だったからです。
計画的に作られた「中央区(都市部)」とは異なり、東区は農民たちが自らの手で切り拓いた土地。そのため、彼らの生活習慣や伝統的な講(集まり)の文化が色濃く残り、石碑という形で今日まで継承されました。
東区の庚申塚は、当時の主要な街道(現在の「北24条通」や旧道)沿いに置かれました。これは村の入り口に建てることで、外部からの「疫病や災い」が村に入り込まないようにする「結界」の役割も果たしていました。
【札幌市白石区】(しろいしく)
戊辰の果てに、理想郷を求めて。開拓の魂が息づく街。


2025年11月現在 人口:214,027人
ここも北海道市町村で対比してみましょう。
「函館市」に次ぐ人口で、現在北海道4位の「苫小牧市」より多いです。
過去訪問の「西区•手稲区•南区」も人口が多いですが、「北区•東区•白石区」をみても、札幌市への一極集中が凄いですね。田舎者には華やかな街です。
アクセスの良さから安定した人気があり、かつての白石村の絆が今も息づいています。


にしても、でけぇー!札幌の区役所でも上位に入る大きさではないだろか。

「白石郷土館」は、役所に併設されていました。

ここは単なる資料館ではなく、戊辰戦争に敗れた仙台藩白石城主・片倉家とその家臣たちが、いかにしてこの地を「白石」と名付け、ゼロから切り拓いたという「不屈の精神」を展示する聖地です。

※以下資料 「白石郷土館」

1871年(明治4年)、故郷を離れ、命がけで北の大地へ渡ってきた旧仙台藩白石城主・片倉家とその家臣団。彼らを待ち受けていたのは、見渡す限りの原生林と厳しい寒さでした。


当初、仙台藩や米沢藩を中心とした東北諸藩は、新政府軍と戦うつもりはありませんでした。彼らの目的はあくまで「会津藩の赦免」を求める嘆願でした。
しかし、新政府側の鎮撫使(世良修蔵ら)が強硬な態度を崩さず、仙台藩士によって世良が暗殺されたことで事態は一変。1868年(慶応4年)5月、北越の諸藩も加わった「奥羽越列藩同盟」が結成され、新政府軍(西軍)との全面対決へと突入しました。

1868年9月、二本松城が陥落し、新政府軍が仙台の喉元まで迫ると、仙台藩内では「主戦派」が失脚し「恭順派(降伏派)」が実権を握ります。
仙台藩は62万石から28万石へと大幅な減封(領地没収)を言い渡されました。
この凄まじい減封により、多くの家臣たちが職を失い、食い詰めることになります。その絶望的な状況下で、「ならば新天地・北海道で再起をかけよう」と立ち上がったのが、白石区の礎を築いた片倉家とその家臣団でした。

かつて勝海舟や福沢諭吉を乗せて太平洋を横断した幕府の栄光の象徴・咸臨丸(かんりんまる)。しかし、明治4年(1871年)当時は、すでに老朽化し、開拓使の輸送船として使われていました。1871年9月、仙台藩白石家臣団(第三陣・約400名)を乗せた咸臨丸は、寒風沢(宮城県)を出港し小樽を目指していました。しかし、函館を出た直後の9月20日、木古内町のサラキ岬沖で暴風雨(あるいは操船ミスという説もあり)により座礁。数日後に沈没してしまいました。 荒れ狂う海の中、地元の泉沢村の人々の必死の救助活動により、401名全員の命が助かりました。しかし、彼らは家財道具のほとんどを海に失い、着の身着のままで函館へ引き返すことになります。
咸臨丸が沈没した際、実はもう一隻の船、「庚午丸」(こうごまる)が後続として走っていました。庚午丸は咸臨丸に乗れなかった残りの移住者(約200名)を乗せていました。咸臨丸の生存者たちは、函館でこの庚午丸のグループと合流します。
全員が合流し、ようやく小樽に到着しましたが、時期はすでに晩秋。雪が降り始める過酷な状況下で、移住団の中で激しい意見対立が起こりました。これが札幌の歴史における大きな分岐点です。
この遭難事件による疲弊と、冬目前という焦りが、一つの大きな集団を二つに引き裂きました。
うっはー!おもしれー!手稲開拓と白石開拓に、こんな歴史があったなんて!
(ここからはパネルでごらんください。)
白石村のはじまり






















お次は、
「白石区開拓記念碑」

こちらも雪に埋まっていましたが、なんとか撮影。
国道12号線沿いにある「白石公園」内にひっそりと、しかし堂々と立っています。かつての白石村役場があった、まさに地域の中心地に位置し、明治4年(1871年)に入植した旧仙台藩白石家臣団の「入植50周年」を記念して、大正10年(1921年)に建立されました。碑には、ここが「白石」という地名になった由来や、開拓の苦労が刻まれています。

この日も、「一旅一ラーメン!」といきますよ!
伺ったのは、

「ラーメン専門 三代目 月見軒 本店」


味噌ラーメンをいただきました!
おいしゅうございました!!

ごちそうさまでした!(令和8年 5杯目)
では白石区最後の訪問です。
「北海道暗渠排水施設発祥の地」


これまたマイナーな発祥の地にきてしまいましたが、暗渠(あんきょ)ってご存じですか?今でも農家さんが数年に一度、お金をかけて工事する田んぼの排水改善です。

場所は国道から1~2本外れた民家が立ち並ぶ住宅街。
いまでも個人宅のようでした。

と、一通り札幌市の北区、東区、白石区を巡ってきましたがいかがだったでしょうか。
毎回「このブログ長くて読むの飽きるんだよな~。とか時間無いと読めないじゃん!」とか思ってるそこのあなた。
ごめんなさい。
カレーは飲み物。ブログは読み物。
こういうブログでした。今回は区の流れを切りたくなくて1本にまとめました。
興味を持ってみていただけたなら幸いです!
北区東区白石区巡りの最後はゆっくり温泉に。しかもちょっと贅沢温泉^^
「北広島温泉 楓楓(ふうふう)」

こちらも茶褐色のお湯が気持ちよく、施設の整った綺麗な温泉でした!
あ~いいお湯でした。
この日はこのあと「道の駅マオイの丘」へ移動し仮眠後、翌朝帰宅となりました。
今回も楽しい旅でした。
無事安全に帰宅できたことに感謝!(新琴似神社の神様のおかげかしら)
では、次のVAN旅でお会いしましょう!
残 9市町村(札幌市6/10区、札幌市は10区訪問後カウント)
**礼文町、利尻町、利尻富士町、奥尻町、札幌市(残4区)、滝川市、砂川市、奈井江町、美唄市**